フィギュアスケートのグランプリシリーズ中国大会。羽生選手はフリースケーティング直前の6分間練習のとき,閻涵(エン・カン)選手(CHN)と激突し頭部を負傷しながらも,フリースケーティングに出場し,5度も転倒しながら滑り切りました。この件では,主に出場の賛否が議論になっていますが,私は「なぜ羽生選手がこれほどまでに出場にこだわったのか」に思いをはせてみたいと思います。

 このような賛否が議論になることは,羽生選手自身もよくわかっていたはずです。だからこそ,なぜ彼が強行出場したのかという背景をよく考えることが重要だと思うのですが,主だった記事やコラムを読んでも,この点に関しては深掘りが不十分であると私は感じました。この点に関して,羽生選手は何も語っていませんので,我々は彼の胸中を推察するしかありません。推察することにどれほどの意味があるかわかりませんが,私が推察することを書き記しておきたいと思います。

 中国大会のフリースケーティングに強行出場した理由として,

  • シーズン初戦だったので,競技会で新プログラムを実践しておきたかった。
  • 中国にも羽生選手ファンは多く,会場にたくさんの観客が来ていたので,五輪金メダリストとしてその応援に応えたかった。
  • 激突は自分の不注意であり,そのことで大会に迷惑をかけることはできないという強い正義感があった。

などが報じられています。いずれも一理ある理由ではありますが,危険を冒してまで強行出場するべき理由なのかといえば,やや弱いと言わざるを得ません。3週間後には日本大会(NHK杯)が控えており,中国大会は無理をせず,日本の観客にベストのスケーティングを観てもらおう,という考え方だってあったはずです。

 おそらく,最も強い理由と思われるのは「グランプリファイナルに出場したい」ということだと思います。グランプリファイナルは,グランプリシリーズの上位成績者6名のみが出場できる大会で,世界フィギュアと並ぶ最高格の競技会です。中国大会のフリースケーティングを棄権すれば今年のグランプリファイナルの出場が断たれてしまいますので,強行出場した理由がここにあることは間違いありません。ただ,今年は五輪直後のシーズンですし,ケガを抱えているならグランプリファイナルを回避して、その2週間後に行われる全日本フィギュアを優先しても,非難されるような選択ではないでしょう。羽生選手はなぜ今年のグランプリファイナル出場にも強い意欲を持っているのでしょうか?

 今年のグランプリファイナルは,スペインのバルセロナで開催されます。スペインで国際大会最高峰の競技会が開催されるのは初めてだと思います。ヨーロッパのスケートは,ロシア,フランス,イタリアが中心で,スペインでは今まであまり盛んではありませんでした。今年スペインで開催するに至ったのには,ソチ五輪4位世界フィギュア2014で3位だったハビエル・フェルナンデス選手の活躍によるところが大きいと思います。

 フェルナンデス選手といえば,羽生選手と同じブライアン・オーサーコーチの指導を受けている同門生です。ですから,羽生選手が「スペインのグランプリファイナルにフェルナンデス選手と一緒に出場して,スペインのスケート界を盛り上げたい」と考えていることは想像に難くありません。尊敬し合う仲間の出身国であるスペインでの初開催に一緒に出場できることは,様々な条件がそろわなければならず,今年のグランプリファイナルは羽生選手にとって五輪と同じくらい出場を熱望する大会なのではないかと思うのです。羽生選手は,五輪の金メダリストとして,またフェルナンデス選手の同門生として,スペインでも知名度が高いと思われますので,自分が出場することで,事実上ホストとしての立ち位置になるフェルナンデス選手をサポートすることになる,と考えていると思います。

 フェルナンデス選手とて,グランプリファイナルへの出場が約束されているわけではありません。グランプリファイナルには自国枠等の優遇措置はありませんので,フェルナンデス選手もグランプリシリーズで上位6名に入る成績をとる必要があります。ただ,フェルナンデス選手は既にシリーズ初戦を2位で終えており,もう1戦を普通に戦えば出場は確実です。その意味では,羽生選手も普通に戦えば確実にグランプリファイナルに出場できる実力があるのですが,中国大会では普通ではないことが起きてしまったわけで,私の推察が正しいとすれば,羽生選手はまさかの事態にとても焦ったと思います。スケート界のため,観客のため,そして何よりフェルナンデス選手のために中国大会のフリースケーティングに強行出場したのではないか,というのが私の見立てです。点数発表後の号泣は「グランプリファイナル出場の可能性が維持された」ことにホッとしたからではないかと思います。

 五輪金メダリストとしての矜持フェルナンデス選手との友情スケート新興国の発展への貢献,これらがとても高いモチベーションとなって今シーズンの羽生選手を支えていると思いますし,中国大会での鬼気迫る集中力もそこから来ていると考えると合点がいきます。おそらく今,羽生選手は,何が何でもNHK杯に出場し,グランプリファイナルの出場権を獲ることだけを考えていると思います。ぜひ羽生選手のケガが回復し,NHK杯に出場できることを願ってやみません